眺めのいいブログ

人生は参考文献だらけ

文章コンプレックス-言葉は三角、心は四角なのか!?-

 

お題「我が家の本棚」

本棚に文章読本が増えた。緊急事態宣言が出された春の中で、文章の書き方についての本をいくらか読んだからだ。

 

学びを結果に変えるアウトプット大全

非論理的な人のための 論理的な文章の書き方入門 (ディスカヴァー携書)

伝わる文章の書き方教室 書き換えトレーニング10講 (ちくまプリマー新書)

重要度順 「伝わる文章」を書く技術 だれでも・今すぐ実践できるコツ60

めんどくさがりなきみのための文章教室

エッセイの書き方 読んでもらえる文章のコツ (中公文庫)

 

幼い頃から付き纏う「文章コンプレックス」を少しでも克服したい、という思いのもと、リンク先に掲載されている本を読み漁った。読書や国語の時間が大好きなのに、日記や作文や読書感想文が下手くそなことが、小学生の頃からの悩みだった。

 

当時は、朝の読書タイムでお気に入りの作品を何回も読んだものだ。小公女、ハリーポッターシリーズ、アンネの日記が大好きだった。心を掴んで離さない台詞と地の文に沢山出会えた。それにも関わらず、感想が大したことない。

 

「セーラはめげなくて、すごいと思いました。」

ホグワーツ魔法魔術学校の食事が美味しそうでした。」

「アンネは私と変わらない、一人の女の子だったのに、戦争の影響を強く受けた結果、大変な人生になったのだと分かりました。」

 以上!!!

という具合に、書き出した感想の内容が薄い。作文や日記も同様だ。

 

「家族でディズニーランドとディズニーシーに行きました。とても楽しかったです。とくに、ディズニーシーは大人っぽくて、良かったです。」

 

アンネとは比べ物にならない、中身のペラペラさ!どれも深く掘り下げられないまま、終了するのだ。読みながら考えたこと、ある出来事をきっかけに言いたくなったことは確実にあるのに、それらが頭の中でゴチャゴチャと絡みあったままで、上手く言葉にできなかった。文章コンプレックスは、中学2年生でさらに加速する。現代文の成績が突然悪化したからだ。

 

中学2年生の3学期に受けた、愛知全県模試。その時の現代文の結果は散々で、論述問題が軒並み不正解だった。生まれて14年間、読解問題は迷うことなく解答してきた。殆どが正解をもらえており、その時の模試でも手応えを感じていた。そういう自己認識だったのに、国語の偏差値が初めて50を下回った。大ショックだった。「国語は私の得点源」というアイデンティティーを失った。それは私にとって、「文学少女なら文を書くのが上手」という、規範(自分で勝手に刷り込んでいた意識だし、何なら私が「文学少女」だったかは怪しい)の逸脱を意味していた。だから、先生や友人に、振るわない国語の結果を知られて、「尻切れトンボちゃんは本を頻繁に読んでいるのに、国語は苦手なんだねえ。おかしいね。」と思われていないか、恐れていた。

 

高校受験を通過できても、私と文章を巡る状況は好転しない。現代文の成績は相変わらず低迷。加えて、小論文も芳しくない。それに伴い、世界の認知の仕方に不安を覚え始めた。誤読により、実は私は、みんなと異なった世界を一人見ているのではないか、と心配になったのだ。下記の順序を経て、こうした考えが生まれた。

 

日本語を使って、様々な教科(英語、日本史、世界史、倫理政治経済、数学、物理、化学、生物、家庭科)を、高校で学習している。でも、私は現代文の成績が良くない。現在の日本語で書かれているはずの文章を、ちゃんと読めていない。そんな苦手な日本語で、日々勉強している。それはつまり、学校で学ぶ全ての科目において、歪んだ受け取り方をしている、ということを意味するのではないのか。なぜなら、私は現代文が不得手で読解能力、日本語運用能力は低いから。そのため、ちゃんと理解できていないのでは。という仮説を持ち始めたのである。

 

結果、「私ひとり、皆とは違う世界を見ているのでは?実は私は世界から疎外されているのでは?」と、偏った考えに辿り着いていた。

 

入試を切り抜け、大学生になることで、教科としての「現代文」や「国語」は終わりを告げる。キャンパスライフが始まった。当然ながら、大学生の生活スタイルは、以前の様式と異なる。人文学系の領域だった私の場合、高校までのテスト勉強に該当するような活動が、ゼミ発表・レポート・論文執筆に、部活動的な立ち位置がアルバイトとなった。

 

だが、文章コンプレックスは消えない。現代文的な要素を随所随処で見つけ出してしまうからだ。現代文と実生活の共通項が、コンプレックスを継続させる。例えば、卒論作成のためのゼミ。指導教員からは、次のような言葉の数々を頂いた。 

 

「先行研究の整理した?」

「どんな手法が使われ、何が明らかになったの?」

「一次資料は何なの?まだ誰も扱っていない?」

「あなたの卒論における研究意義は?そのテーマ設定だと、その分野にどんな発展がもたらされるの?」

 

そんな問掛けをきっかけに、センター試験国語の第1問と、2次試験の記述問題を思い出した。論説文の文章題の、筆者の主張を問う問題、内容把握問題、言い換え問題に苦戦したあの頃の記憶。

 

あるいは、内定者アルバイトとしての勤務先であったアパレル店での出来事。そこでの接客指導は、まるで小説の読解問題のようだった。

 

「お客様はどんな気持ちでお店に来たの?」

「相手の話を最後までちゃんと聞いた?」

「お声がけのタイミングを意識しないと!」

 

こうしたフィードバックは、主人公の心情把握問題を解いている感覚に私をさせた。相手が発する言葉、仕草、視線から、その人が本当は何を求めているのかを汲み取って、サービスを行う。この一連の流れは、風景描写や主要人物の動き、セリフを通して、登場人物の心理、ひいては、作者の伝えたいことを読み取る作業に似ている気がする。

 

不正解が続き惨めな気持ちになるのは、現代文だけでなく、研究と店舗運営も同じだ。先行研究や資料の読み込みがうまくできない時、まとまりと内容のないレジュメを作成してしまった時。あるいは、お客様とのやり取りが頓珍漢なものになった時。対応すべきメールを読み流していた時。

 

それらの原因は、焦ったり怠けた結果、物事の一番重要なポイントを見抜なかったことにあると思う。その度に、ああ私って何て独りよがりで周りが見えていない人間なんだろうと、恥ずかしくなる。相手が何を求めているのか想像できない、的の外れた対応をする、珍竹林として映っていたんだろうなと考えると、穴へも入りたい。

大きくなった今も、言葉を正しく理解することへの興味関心は尽きない。会話のキャッチボールではなく、会話のドッチボールになっていたかも、と振り返ることはまだまだ続く。また、時には、本の内容を正確に把握することに夢中になり、内容の検証が二の次になることも。そんなわけで、この先も私は「なんでこの一文に気が付かなかったんだろう…。」とか「あの時こういう風に書けば、言えば、よかった。」とか「喋るタイミングをミスったかも。」のように、一人反省会を開催するんだろうな。

 結局、現代文はコミュニケーションの基礎なのだと思う。論文なり、売上なり、成果を得るための土台。相手に寄り添い、双方にとってメリットのある良い結果を残せるようになりたいものである。

そしてnoteも久々に更新!

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