眺めのいいブログ

親愛なるキティーへ。

びじゅチューンとさくらももこさんが学校に行きたくない気持ちを代弁してくれている。

学校に行きたくなかった。

ここ数年で、9月が近付くと、新聞・テレビなどに夏休み終了に関する問題が上がるようになった。少なくとも、私が現役高校生(2011-2013)の頃より目につくようになったと思う。それもそのはず、8月31日問題は2014年頃から認識され始めたようだ。2018年9月1日土曜日の中日新聞朝刊6面によると、文部科学省が2014年に発表した「不登校に関する実態調査」をきっかけに、「新学期と子どもたちの危機」が社会問題として扱われだしたことが窺える。

 

かくいう私も、義務教育期間中は常に、学校を休みたい気持ちで一杯だった。もちろん、夏休みが明ける時は最悪。毎年、今年みたいに8月31日が金曜日で9月1日2日が土日だったらいいのに、と思っていた。(でもよく考えると9月3日からいきなり1週間フルで通わなきゃいけないから、それもそれでリハビリできず大変よね)

学校に行きたくない理由は何だったのか。それは、

びじゅチューン!

「平熱でうらめしや」

youtu.be

さくらももこのエッセイ『まる子だった』の中の「休みたがり屋」

honto.jp

で述べられているものと等しい。「平熱でうらめしや」の冒頭で主人公が言う「読んでいる本が今よいとこで、学校に行きたくないモード」や「休みたがり屋」p.98の「単に学校よりも家の方が好きだったのである」というマインドだ。こういう精神・考え方が基盤にあるため、学校を休みたかったし、ほぼ全てのことに対してサボりたい気持ちが湧いてくるのだ。別に、ひどいいじめに遭っていたなど、人権問題に巻き込まれていたわけではない。学校生活がそれなりに楽しんでいた方だ(図書館んおかげで)。単に、私の中で、マンガ本映画ドラマ鑑賞等の娯楽作品鑑賞の優先度や価値が、学校生活のそれらより高かっただけなのである。

でも、娯楽作品鑑賞の優先度が高かったことには、学校生活を面倒臭いものだと捉えていたことが関係している。面倒臭いと思った要因の殆どが、義務教育期間中のものなので、少しその過去を振り返ってみる。 

小中学校

人間関係だ。兎にも角にも人間関係。陰キャラとか主導権を握った女の子とか排除とか、そういうこと。私は元来「同い年は皆んな友達〜♪」精神を持った女の子だったが、小学3年生の時に、実際はそれは脳内お花畑な考え方であり、義務教育子ども社会にもヒエラルキーがしっかりと存在することを自覚した。「昨日の友は今日の敵」状態が発生したのだ。でも、私は再び脳内お花畑思考を発揮する。こうした人間関係のゴタゴタが起こるのは、皆んなの精神が発達途中の敏感な時期であるためだ・高学年になったら成熟して仲良くできるようになる、と考えたのだ。勿論そんなことはなかった。中学卒業するまで、私はこのお花畑的理想と現実のギャップに溜息を吐き続けていた。こうした状況下で学校に通ったのは、好きな先生方がいたからだ。性的な魅力に溢れている先生のことではない。知的好奇心を刺激する授業を展開してくれる先生がいたからだ。面白い授業を聞きたくて、学校に行った。

今23歳になって、人間関係ギスギスの原因の全てが、当時の児童・生徒にあるわけではない、と思うようになった。私は普通の地元の公立小中学校(治安悪め)に通っていたので、そこには、いろんな層の家庭があった。そうした社会の現状が凝縮された世界が、学校のクラスだった気がする。また、自分を省みるようになった。私だけが傷ついていたわけではない。私も誰かを傷つけた。先程「人権問題に巻き込まれたわけではない」と書いたが、自分自身で認識していなくても、私も誰かの人権を損なう行動を取っていたと思う。

まあ振り返るべきことはあるが、同時に、あの時自分はしんどかったというのも事実である。

 高校以後

高校と大学は、義務教育中に比べて、学校に行きたくない気持ちが格段に減った。第一に、通いたい学校を自分で選ぶことのできる環境に私が置かれていたためだ。自分が行きたい所を選べる自由に加えて、自分の理想を周りに押し付けることをやめたことも、影響している。期待をしないようになったのだ。そのかわり私も、協賛しない他人の理想には付き合わない。

何よりも、「休みたくない!」と思う機会が増えたことだ。これが義務教育期間中との1番大きい違いだ。休みたくない理由には、ネガティブなものとポジティブなものがある。ネガティブな理由は、「ここに出席しなかったら後からまずい事が起こる、、」とか「私がそこにいなきゃ事が回らない!」など、休めない状況から来るものだ。反対にポジティブな理由としては、「この先生の授業は絶対聞きたい!」といったものや「今日は学校でこの子と絶対にお喋りするの!」みたいなのがある。

それでも、長期休みの終わりは憂鬱になる。だが、今の憂鬱さは学校のヒエラルキーや人間関係から来るものではない。休みが終わるごとに、時間の経過・学生生活終了の足音を感じるから、永遠に休みであってほしいと思ってしまうのだ。というのが、きちんと表現できる理由で、あとは「特に深い理由はないけど何か面倒いしダラダラしとりたいから学校始まってほしくない」というのが主だ。

 これから

まあこんな感じで、振り返ってみると常に、様々な理由から休みであってほしい願望を抱き続けている。きっとこれからも私は、特に明確な理由がなくても、「ああ、学校行きたくない」「ああ、仕事めんどくさい」とか思ってしまうのだろうな。

本当に現時点の考えだが、歳を取るとサボれない状況が増えて来る気がするので、小・中学生の時に好きなだけサボっておけば良かったな、と思う。

とりあえずココに連絡してみると良いかもしれない!

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中日新聞2018年9月2日日曜日朝刊1面より